キルギスという国では、女を誘拐して結婚する習慣があるそうです。
とんでもない犯罪国家ですねwww
【閲覧注意】女性悶絶?!ガチで行われている恐ろしい世界の習わしがヤバすぎる…① - YouTube
(参考)
『キルギスの誘拐結婚』 - ある日突然、花嫁に日本ではぜったい考えられない…残酷な風習「誘拐婚」 - NAVER まとめ女性を誘拐し結婚する誘拐婚が行われている国キルギスがやばい・・・【世界誘拐ファイル】 | 独女ちゃんねる「誘拐」された女性が、結婚を受け入れる本当の理由 |ナショジオ|NIKKEI STYLEキルギスって、どこにあるの?
キルギス - Wikipediaキルギス共和国(キルギスきょうわこく)、通称キルギスは、中央アジアに位置する旧ソビエト連邦の共和制国家である。首都はビシュケク(旧名フルンゼ)。かつての正式国名はキルギスタンであり、改称以降も別称として公式に認められている。
北から時計回りにカザフスタン、中華人民共和国、タジキスタン、ウズベキスタンと国境を接する。ソビエト連邦から独立したウズベキスタン、カザフスタン、トルクメニスタン、タジキスタンとともに中央アジアを形成し、独立国家共同体 (CIS) 加盟国である。
ざっくり言うと、
・ロシアの下にある
・中国の左にある
・インドの上にある。
とんでもない国ですが、日本人の非モテ男子がキルギスに行って、同じことをやっても逮捕されないんでしょうか!?
言語
キルギス語が国家語、ロシア語が公用語とされている (憲法第10条第1項、第2項[3])。
1999年の国勢調査によると、キルギス語が65.2%、ウズベク語が14.7%、ロシア語が14.0%となっている。ウズベク語はオシ州やジャララバード州を中心にウズベク系住民の間で使われている。
ロシア語は独立以降公用語から除外されたウズベキスタンなどと違い、引き続き公用語に制定されている。これは、国の中枢を占めていたロシア人などのロシア語系住民の国外流出(頭脳流出)を防ぐためであり、現在[いつ?]でも山岳部を除く全土で通用し、教育、ビジネスや政府機関で幅広く使用される。特に首都ビシュケクとその周辺では多くの住民はロシア語を使って生活しており、キルギス語があまり上手に話せないキルギス人もいる程である。
その他、ドンガン語なども使われている。
宗教
宗教は、イスラム教が75%、正教が20%、その他が5%である。
ロシア語をしゃべれたら、キルギス女子をナンパできるかな?
てか、イスラムはヤバイね!?(あいつらガチ過ぎるからw)
日本人に瓜ふたつ!?「キルギス人」とは - NAVER まとめ…ちょっと、ロシア語の勉強でもしてみるかなーwww
昔、鹿児島県では、女性をレイプして結婚する習慣があったそうです。
現代の日本からは、想像することもできませんね!?
ヤバすぎて封印された日本の奇習! 鹿児島のレイプ結婚「おっとい嫁じょ」とは?(1/2) - ハピズム
2012年末、インドの首都ニューデリーで無認可バスに乗車して移動中の女性を男性6人が集団で強姦・殺害した事件が報じられて以降、インドで日常的に性犯罪が起きている現状が注目を浴びている。インドでは性犯罪に対する警察の態度も消極的で、なかには強姦被害を訴えた女性に対して警察が加害者との結婚まで勧めた事例があることも報じられた。
これを人権意識の低い、一部の発展途上国の出来事というのはたやすいが、実は半世紀前の日本でも一部地域では似たようなことがあったことを何人の日本人が知っているだろうか?
■鹿児島の奇習「おっとい嫁じょ」とは?
鹿児島県の大隅半島周辺ではかつて「おっとい嫁じょ」なる奇習が存在した。地元方言で「おっとる」というのは「盗む」の意味で、「おっとい嫁じょ」を標準語に直訳するならば「嫁盗み」。
簡単にいうと、結婚に不同意な女性を強姦して妻にするという驚くべき風習なのだ。今よりも女性の貞操観念の強かった時代では、強姦された「傷物」の女性は嫁ぎにくくなるため、結果として被害女性もその親も渋々、加害男性との結婚を承諾するということなのである。そして第二次世界大戦後の1959年、この風習が全国的に知られる事件が発生した。
事件の主人公は当時この地方在住の青年A。Aは婚期になっていたため、義兄の勧めで当時二十歳の女性B子を紹介された。AはB子に一目惚れし、初対面のその場でB子に結婚を申し込む。その後さらに2回にわたって結婚を申し込んだが、最終的にB子の兄を通じて結婚を断られた。どうしても諦めきれなかったAが思いついたのが「おっとい嫁じょ」だった。
Aがこの手段に至ったきっかけの1つであろうと思われるのが彼の両親の馴れ初めだ。そもそもAの母親は結婚前に家族と食事中、Aの父親に拉致され「おっとい嫁じょ」により結婚し、「おっとい嫁じょ」の「申し子」とも言えるAが誕生していたのだ。
結局、Aは従兄、叔父の協力で地元の職業安定所から帰宅途中のB子を拉致、再度結婚を申し込んだが、拒否されたことで知人宅の一室で「おっとい嫁じょ」、つまり強姦に及んだのである。
一室を提供した知人は、予め「おっとい嫁じょ」になることを知って部屋を貸しており、しかもAの強姦後には協力者の従兄と叔父までもが強姦に参加するという、今ならば悍ましいの一言ではすまない事態まで起こっていたのだ。ちなみに従来から「おっとい嫁じょ」では、相手女性の抵抗を見越して数人の男性協力者が同行しており、彼らがご相伴に預かることは珍しくなかったという。
「おっとい嫁じょ」では、最終的に女性とその両親が加害男性宅に結婚の挨拶に来るというのが習わしで、Aも強姦後に彼女らの来訪を待っていたらしいが、彼の元を訪れたのは警察。結局、強姦致傷罪でAは逮捕された。
レイプに成功したので、花嫁が来ると思っていたら、警察が来た…。
あたりめーだろうが!!!というオチですねwww
(いや、シャレになってないけど><)
■住民の狂った貞操観念
だが、本当に驚くべきはここからだ。Aが逮捕されると、裁判所には多数の地元住民が署名したAへの情状酌量を求める嘆願書が提出された。さらには「お上は地場の風習に手を突っ込むのか」という警察批判や「自分は子供の頃に『おっとい嫁じょ』に向かう集団の先導で提灯を持ったことがある。何が悪いのか」と堂々と語る地元学校の校長まで現れる始末だった。
弁護人も「地元で『おっとい嫁じょ』は適法視されており、Aに違法性の認識はなかった」と主張したが、鹿児島地裁は「供述調書からはAが『おっとい嫁じょ』の反社会性を認識していたことがうかがわれる」との理由で懲役3年の実刑を言い渡した。
実のところ呼び名は別にして、同様の風習は明治期頃までは鹿児島に限らず、日本の地方では存在していたが、時代の進展とともに徐々に廃れていったという。なぜ鹿児島でこの風習が昭和期まで残っていたかは知る由もないが、少なくとも、現在でもこの風習で結婚した夫婦の子供は一部在命している可能性は少なくない。その意味ではインドの事件のような光景は、日本では遠い彼方の記憶でもないのだ。
(真田秀久)
おい、おい、おい!
住民丸ごと賛成って、どうなってんのさ!?
今の鹿児島県民は、大丈夫なんだろうな?
おっとい嫁じょ事件の舞台は鹿児島県肝属郡串良町(現 鹿児島県鹿屋市)おっとい嫁じょとはいわゆる略奪婚の慣習であり、「婚姻に同意しない婦女をして婚姻を止むなく承諾させるため相手の婦女を強いて姦淫する」習慣のこと。
なぜか都市伝説扱いされることもあるが、実在した風習であり、昭和34年(1959年)に強姦致傷で男性が逮捕、有罪となったことから全国的に有名になった。
事件を契機に、おっとい嫁じょの習慣の存在、村を挙げて男性を無罪にすべく署名が集められたこと、弁護人も違法性の認識を欠き無罪である旨主張したことなどが大きく新聞等で報道されたためである。
昭和34年というと大昔のように思う人もいるかと思うが、同風習が昭和34年に廃れたとしても、これににより夫婦となった者はいまだ十分存命であると考えられる(若ければ70程度か)。
両親がおっとい嫁じょにより結ばれたという人も、50代40代にはいることだろう。
判旨を引用する。太線、■は増田。鹿児島地判昭和34年6月19日。
主 文
被告人を懲役三年に処する。
未決勾留日数中三十日を右本刑に算入する。
訴訟費用は全部被告人の負担とする。
理 由
(罪となるべき事実)
被告人は、昭和三十四年一月十五日頃、その義兄である■■■から早く婚姻するように勧められたので、被告人もその気になつて南に年頃の娘の紹介を依頼したところ、南の計らいで同月十九日鹿児島県肝属郡串良町細山田■千■百■十番地乙野次郎方において、同人の長女A子(当二十年)と会う機会を得たが、被告人は忽ち同女に想いを寄せるに至り、その場で同女に婚姻の申込をなしその後二回にわたつて同じ申込を繰り返えしたが、同月三十日には同女の兄B男を通じて右申込を拒絶された。然し、被告人はどうしても同女との婚姻を断念できないので、同女を強いて姦淫したうえ同女をして止むなく婚姻に同意させようと考え、同年二月五日■方において■、ならびに■■こと■■■■■と相談の末、翌六日同女が鹿屋市所在鹿屋職業安定所に行くのでその帰途を三名で待伏せて無理にでもハイヤーに乗せてどこかに連れて行き、更に婚姻の同意を求め、それでも応じないときは夜になつてどこか知人の家に連行し、被告人において同女を強いて姦淫することに計画を決め、翌六日午後零時過ぎ頃、被告人等三名は前記安定所附近において同女を待伏せ、同女を附近の食堂に連れ込んだうえ、再び婚姻に同意するように説得したが、同女に拒絶されたので、ここに、被告人等三名は前記計画を実行に移すべく意思を通じ、同日午後三時頃同市向江町■■医院先路上において被告人は前方より同女の手を引き、■、■■■等は後方より同女を押す等して同女を無理に前もつて被告人が誘導して来ていたタクシーに乗せたうえ囎唹郡大崎町方面に連行し、同町所在の食堂において時間をつぶした後、同女をその自宅に連れて帰ると欺いて再び同女をタクシーに乗せ、途中下車させてくれと懇願するにもかかわらず、タクシーの戸を押えて脱出を不能ならしめたうえ同日午後六時過頃、同女を肝属郡串良町有里■千■百■十■番■■■■■方に連れ込み同日午後十時頃、被告人は前記連行により極度に畏怖している右A子を同所四畳半の間において仰向けに押倒し右手で同女の両手を同女の頭の上方に押えつけ、足で同女の股を蹴る等の暴行を加えて完全に同女の反抗を抑圧したうえ二回にわたり強いて同女を姦淫したがその際同女に対し治療五日間を要する処女膜裂傷を負わせたものである。(証拡の標目)《略》(法令の適用)
被告人の判示所為は刑法第百八十一条第百七十七条第六十条に該当するので所定刑のうち有期懲役刑を選択し、その刑期の範囲内で被告人を懲役三年に処し、同法第二十一条を適用して未決勾留日数中三十日を右本刑に算入し、訴訟費用は刑事訴訟法第百八十一条第一項本文により全部被告人に負担させることとする。(弁護人の主張に対する判断)
弁護人は「被告人の住居地である串良町地方には婚姻に同意しない婦女をして婚姻を止むなく承諾させるため相手の婦女を強いて姦淫する「おつとい嫁じよ」という慣習があり、右姦淫行為は一般に適法視されている。被告人も右慣習の存在により本件姦淫行為を適法行為と確信し、その違法性の認識を欠いていたから本件行為は、その故意を欠くものである。」旨主張するが、少なくとも本件の如き自然犯にあつては違法性の認識は故意の成立要件ではないと解せられるのみならず被告人の当公廷における供述同じく検察官に対する供述調書によれば、被告人が右の如き慣習が反社会性を帯びるものであることの認識を有していたことが明らかであるから被告人は違法性の認識を有していたものと認むべきであり、弁護人の右主張は採用しがたい。
よつて主文のとおり判決する。
昭和三十四年六月十九日
鹿児島地方裁判所刑事第二部
裁判長裁判官 古庄良男 裁判官 西川太郎 裁判官 龍岡稔
昭和34年に集団強姦罪はなく、強姦致傷罪の法定刑も今より軽い。なお、処女膜裂傷が強姦致傷に当たることは現在では確定判例(最決昭和34年10月28日刑集13巻11号3051項)である。
弁護人の主張、「自然犯にあつては違法性の認識は故意の成立要件ではない」との判示については、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%85%E6%84%8F、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%95%E6%B3%95%E6%80%A7%E3%81%AE%E6%84%8F%E8%AD%98など。現在では自然犯、法定犯の区別はぴんとこないかもしれないが。
上記判例より、おっとい嫁じょの慣習のあった地域は鹿児島県肝属郡串良町地方であることがわかる。
現在では、平成の大合併により、鹿児島県肝属郡串良町は鹿児島県鹿屋市の一部となっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%B1%8B%E5%B8%82#.E6.9D.B1.E9.83.A8.EF.BC.88.E4.B8.B2.E8.89.AF.E7.94.BA.EF.BC.89
しかしながらこの文章を書いているいま、私が検索したところでは、串良町地方とおっとい嫁じょを関連づける文献がインターネット上には存在しない。
なるほどおっとい嫁じょは現行刑法下では犯罪となるべき行為である。
しかしながら、我が国日本に古来より伝わる文化のひとつでもあり、これをなかったものとし徒に無視することはひとつ文化の損失であるといえる。
そこで、差し出がましいかと思ったが、串良町とおっとい嫁じょを関連づけるべく、本記事を書いた次第である。
失われゆく日本の文化が何らかの形で保存されることを切に願う。
九州男児って、カッコイイもんだと思っていたが、完全にイメージが狂ったなー。
ただのキチガイじゃねーかよwww
タイやミャンマーのマフィアが裏切り者を処刑する方法が紹介されていました。
ほんまかいな!?
【閲覧注意】快楽◯刑の実態がヤバイ、 一生に一度きりの快楽に悶える人々 - YouTube「
快楽処刑」でググると、いろいろ出てきます。
タイ・ミャンマー国境地帯の麻薬マフィア"快楽処刑"とは? 「ヨーロッパの阿片窟」が残した負の遺産 - エキサイトニュース
私は、ルドルフ・グライナーです。日本と世界を研究するドイツ人です。私は、日本と世界の違いやドイツと日本の違いを研究しています。
今回は、 最近、ヨーロッパで話題のタイとミャンマーの国境地帯のマフィアや少数民族が行った"快楽処刑"についてご紹介します。そして、なぜこのような処刑法が生まれたのか、その起源は何なのか、歴史を遡って探っていきます----。
■タイとミャンマーの国境地帯のマフィアが行った「快楽処刑」とは?
ニュースによると、あるマフィアのグループ内で規則を破った数名の男女に対し、「快楽処刑」という刑罰が下されたということです。
【「快楽処刑」壮絶内容】
・処刑小屋
まず、小屋の中の柱に男女を全裸で縛り付けます。その小屋は、出入り口が1つしかなく、そして、藁にバナナなどの葉が交ぜられた壁が何重にも重ねられ、あまり通気性がよくない小屋だったそうです。また、その小屋は山の上にあり、崖に面しています。ちょうど多くの人が住んでいる村から見えるような場所です。
・焚き火
そして、その小屋の入り口と小屋の中で、焚き火をします。その焚き火の中には、ヘロインをとった後のケシの実や麻の実が大量に入れられています。要するに麻薬を燃やした煙を小屋の中で充満させるのです。その焚き火は三日三晩連続で行われます。数名はこの時点で中毒死してしまいます。そして、生き残った人も、幻覚で完全におかしくなってしまいます。
・ヘロイン小屋の中で
村から見れば、三日三晩その小屋の屋根から白い悪魔の煙が立ち上ります。
初めのうちは「やめてくれ」「ここから出せ」というような悲鳴が聞こえるそうです。しかし、いつの間にか、「えへへへへへ」というような不気味な笑い声が聞こえ、またわけのわからない「うおー」というような咆哮が聞こえるようになります。それでも焚き火はやめません。生かしておかなければならないので、たまに、村人などがその小屋に水を与えに行きます。始めのうちは哀願している男女も、いつの間にかだらしなく口からよだれを出し、水を飲んでも反応が少なくなる。そして、だんだんと「動物」のようになってくるというのである。そして、何も食べず、体力もなくなってしまうというのです。男性の中には、股間が射精で汚れている者もいるらしいです。
・三日三晩過ぎた後、生殺し処刑
そして、三日三晩が過ぎると、処刑人は、数本のナイフを持ち、そして女性の縄だけをほどきます。あとはカメラで監視します。女性はまず、近くにある水を飲み、そして男性を殺して、または生きたまま食べ始めます。また、好みの男性の股間にまたがって、そのまま死ぬまでセックスを楽しむというのです。男性は縛られているので抵抗もできません。ただ女性たちにされるがまま、声を上げているだけですが、食べられている男性も、始めのうちは生きているので、声を上げながら抵抗しています。また、セックスをしている男性は体力の限界までセックスをし続けるので、完全に体中がなえてしまって枯れるようになって死んでしまいます。
・処刑の最期
そして、男女両方の縄をほどき、生き残った全員を小屋から出すと、フラフラと崖から飛び降りてしまうのです。飛び降りず、村の方に下りてきた男女は、再度捕まり牢屋に入れられ、処刑人数が集まってから、もう一度同じことが行われるそうです。小屋の中には、セックスのしすぎで枯れたように死んだ男女の死体と、食べられてしまい、骨の見えた血まみれの死体が残っているという状態です。そして、崖の下には、何人かの全裸の男女の死体があるのです。
■「快楽処刑」の起源
これらの刑罰は、昔ヨーロッパで流行していた「阿片窟」といわれる「喫煙所」の奥の「仕置き部屋」で行われていたリンチと同じで、ヨーロッパのマフィアのリンチ方法です。
マフィアは、売春婦やボスの情婦が裏切ったりした場合に、普通に殺すのはつまらないので、阿片窟の奥に連れてき、女性を閉じ込めて阿片を大量に吸わせ、そのまま地下牢につなげて最下層の売春婦にしてしまったといわれています。そのような最下層の売春婦は、最後には、もちろん殺されてしまうのですが、その文化が植民地の支配者を通じて東南アジアに入ります。そしてそのようなマイナスの文化が、いつの間にか東南アジアのマフィアの間で流行するようになったのです。
ヨーロッパの一部では、このマフィアの撮影したカメラの動画を見ることができるようですが、私は見ていません。見た人の間では、有名な話になっています。
■植民地時代の東南アジア
東南アジア各国は、建国後、時間がたっていない国がほとんどです。
制度や法律はできていても、民衆の生活に適合していない場合が多い。なぜなら民衆は、法律どころか、識字率も低いのですから。
これは、われわれヨーロッパ人がよくないのですが、大航海時代以降、ドイツを含むヨーロッパの国々が、こぞってこの地域を植民地としていたのです。
ヨーロッパ人は植民地に対し、基本的に教育機関を設けず、奴隷制度で支配し、自分たちよりも高い能力を持つ人が出てくるのを防ぎました。また、ヨーロッパ人が本当に欲していたのは人間ではなく、自分たちの役に立つ"物質"です。たとえば、イギリスの東インド会社の場合は、紅茶は必要でも紅茶を作る畑も、紅茶を栽培する人も要らないということになります。
狩猟民族の文化があるヨーロッパでは、「相手を殺して自分の栄養にする」という考えが中心にあります。それゆえ、日本のように「植民地に教育を施して、同等に近い生活をさせる」という発想はないのです。現在、日本が支配した場所は、一部を除いて日本に良い感情を持っている土地が多いですね。一方、ヨーロッパ、特に白人に対してはあまりいい感情を持っていないというのは、このようなことが原因ではないでしょうか。
■負の遺産は、受け継がれる
さて、彼らが独立した後、彼らは独立した自分たちの政府を作ります。しかし、残念ながらそこに教養や教育は少ないのです。もちろん、まったく教育を受けていなかったとか、そのようなことを言うつもりはありません。
しかし、彼らの教育水準が、彼らが独立した当時、欧米や日本など先進国と比べて高かったかというと、そういうことはないのです。
そこで、彼らは「自分たちがされていた支配方法」を、自分の国民に行うようになります。民主化などが行われるのは、独立後ずっと先のことです。それまでは、彼らは、彼らがヨーロッパの人々に支配されたとおりに、軍と武力で支配を強めてゆくことになるのです。
さて、そのような悲しい歴史の原因はヨーロッパを真似たものです。しかし、ヨーロッパ人は、自分たちの歴史も忘れ「前近代的」「野蛮」といって批判してしまうのです。
このことは、処刑や刑罰などに関しても同じです。彼らは、中世の封建時代のヨーロッパをそのまま持ち込んでいます。植民地に派遣されたヨーロッパ人たちは、好き放題残虐な刑罰を行っていましたが、それを彼らが受け継いでしまったということです。ヨーロッパの植民地侵略が生んだ負の歴史は、まさに処刑という文化にまで根強く残り、そしていまだに彼らを苦しめているのです。
(ルドルフ・グライナー)
もともとは、ヨーロッパで行われていた習慣らしいですね?
本当かどうか?確かめようがないので何とも言えませんが、こういう方法を思い付く奴がいても、おかしくはないのでしょう。
小説とか、映画ならあり得るかもしれないけど、日本じゃこんな習慣見たことないよなー。